
森光子の死因!没年齢と命日・晩年の活躍もまとめ
舞台「放浪記」をはじめ数々の作品で活躍し、国民栄誉賞を受賞するほど日本演劇界に多大な貢献をした大女優・森光子。2012年に死去した森光子の没年齢と命日、死因や晩年の活躍をまとめました。最期まで舞台に立とうとした森光子の生涯をお届けします。
森光子のプロフィール
名前:森 光子(もり みつこ)
本名:村上 美津(むらかみ みつ)
生年月日:1920年5月9日
出身地:京都府京都市
血液型:B型
代表作である舞台「放浪記」など数々の作品に出演し、国民栄誉賞をはじめ多くの名誉ある賞を受賞した大女優の森光子。
1935年に映画「なりひら小僧 春霞八百八町」でデビューし、1961年に舞台「放浪記」で芙美子役に抜擢されたことで、生涯通算2017回を数える代表作の幕を開きました。
日本演劇界への貢献は多大なものとなり、その功績が認められて1984年に紫綬褒章を受章。
1992年に勲三等瑞宝章を受章。
2005年に文化勲章を受章。
そして2009年に国民栄誉賞が授与され、俳優として初めての生前授与を受けました。
15歳でデビューしてから長い年月を女優として過ごし、国民的大女優として多くの人に愛された森光子。
ここでは2012年に死去し永遠の眠りについた森光子の没年齢と命日、死因や晩年の活躍をまとめました。
森光子の没年齢と命日
森光子の命日は2012年11月10日で、没年齢は92歳でした。
15歳でデビューしてから92歳で亡くなるまで、実に77年という長い年月を女優としての仕事に捧げ、最期まで舞台に立とうとする女優の矜持を持っていたのが森光子です。
森光子の死因
森光子の死因は、肺炎による心不全です。
2012年11月10日、入院先である文京区本郷の順天堂大学病院にて、肺炎による心不全のため亡くなりました。
森光子は生前から親族だけの密葬を望んでおり、死後は近親者のみの密葬が済まされた後、親族から東宝に訃報が伝えられ、東宝から正式に森光子の訃報が発表されました。
死因は肺炎による心不全ですが、高齢となり体調を崩すようになった森光子は2010年に舞台「放浪記」の上演中止を発表し、活動休止状態に入っていました。
2010年秋頃から入退院を繰り返すようになり、嚥下機能が低下して食べ物が喉を通らなくなっていたといいます。
2011年に再び入院してからは点滴で栄養補給を続けていましたが、2012年2月に入り誤嚥性肺炎を発症。
胃ろう造設手術も行われ、経腸栄養剤の投与を続けていましたが、体調は回復に向かわず衰弱が進んでいました。
その後、一時退院をしたのち2012年9月に再入院し、最期は眠るように息を引き取ったことが明かされました。
森光子の晩年の活躍
森光子は高齢を迎えてもなお元気な女優だったことで知られており、2005年に芸術座での千穐楽を迎えた「放浪記」の最終公演まで、名物のでんぐり返しを続けていました。
この時、森光子の年齢は85歳。85歳という年齢で舞台上で毎日のようにでんぐり返しを披露するというのは、並大抵の事ではありません。
その強靭さは、老化を言い訳にする事なく、何歳になっても元気でいられるようストイックなまでの体作りが行われていたおかげでした。
晩年、高齢による体力の衰えを感じ始めた森光子は、ジムでトレーナーを付けて肉体改造に挑戦。
高齢者に分類される年齢ながら、毎日欠かさずスクワット150回を行い、エアロバイクを漕ぎ、下半身の筋力強化に励みました。
その甲斐もあり80代を迎えても現役の女優として舞台に立ち続け、舞台「放浪記」は芸術座から帝国劇場やシアタークリエに場所を移して生涯通算2017回を記録しています。
その一方で、「オフィス・モリ」の代表でマネージャーとして長年公私にわたり森光子を支え続けた実妹・柳田咲子が死去したことや、長年の付き人が去ったことが重なり、晩年は病気がちになるなど弱った姿を見せるようにもなりました。
それでも森光子は舞台を「私の生きがい」と話し、「お客様が待ってる」と舞台に立つことを選び続けたのです。
晩年も舞台出演をこなし活躍
2009年には明治座で上演された国民栄誉賞受賞記念出演作品「晩秋」に出演しました。
2010年にはかねてより親交が深かったジャニーズ事務所前社長・ジャニー喜多川氏の演出作品「新春 人生革命」に出演。
この作品は滝沢秀明主演で上演されていた「滝沢革命」関連の特別作品で、森光子を主演として滝沢秀明・錦織一清・Kis-My-Ft2やA.B.C-Zなども出演した舞台です。
1ヶ月にわたり「新春 人生革命」の主演を務めた森光子ですが、主治医が体力面を不安視したことで、2010年5月開幕予定だった「放浪記」は中止が発表されました。
晩年の入院生活にも森光子らしさが光る
「放浪記」の上演を中止し事実上の活動休止に入った森光子は、その後入退院を繰り返すように。
晩年は日に日に衰弱していく体を実感しながらも、本人はとても気丈に振る舞い、最期まで女優の矜持を守ったことが関係者の話から判明しています。
自力で食事がとれなくなり点滴による栄養投与を行なっていた時も、体調がよければ病室でスクワットを行い体力維持に努めていました。
さらに、関係者が見舞いに訪れた時には病院着の寝巻きからブラウスとカーディガンに着替えていたとも言われており、女優のプライドを持って気丈に振る舞っていたことがわかっています。
入院中も舞台復帰への意欲は強く持ち続け、病室の枕元には常に「放浪記」の台本が置かれていました。
眠るように息を引き取った森光子の最期の言葉は、「みなさん、一生懸命される仕事を生きてね」だったそうです。
最期まで女優として一生懸命に生きた森光子らしい遺言を残し、永遠の安らかな眠りにつきました。
まとめ
女優としての生涯を全うした森光子の没年齢と命日、死因と晩年の様子をお届けしました。
死後も追悼作品や記念公演が作られるなど多くの人に愛され続ける森光子に多大なる敬意を表したいですね。